お寿司屋さんの歩き方

寿司の歴史

普段、私たちはそのルーツを意識することなく寿司を食べています。しかし、ふとした拍子に考えたことは無いでしょうか。「寿司を最初に食べた人は誰なんだろう?」「寿司を発明したのは誰なんだろう?」と。そういった寿司のルーツに鋭く迫っていきます。

寿司の原点とは

歴史上、寿司は今のような酢飯を握り固めた上に魚などのネタを乗っける握り寿司の形で生まれてきたわけではありません。寿司の原点となるのは今で言う「熟れ鮨(なれずし)」であったと考えられています。熟れ鮨は米や麦などの穀物を炊き上げて、その中に魚などを詰め込乳酸菌の力で乳酸発酵させた発酵食品の一種です。発酵食品は、発酵に関わった微生物の力で原材料となった食品には無かった栄養が含まれています。熟れ鮨は一種の健康食品として、発祥の地であったとされる東南アジアから中国、そして日本へと伝播していったのです。

寿司とは「鮨」「鮓」である

熟れ鮨の「ズシ」の字を見て判るように、昔は寿司を「鮨」もしくは「鮓」と書いていました。『魚へんに旨い』、『魚へんに酢っぱい』と書いていたのです。乳酸発酵によって、米などの穀物が持つでんぷんや糖質は分解されてドロドロになります。この時乳酸菌は酢酸などを生成し、ビタミンと酸っぱさを加えていきます。この酸っぱさが不思議と魚と米を結びつけ、美味にすることを知った日本人は鮨・鮓を寿司へと昇華していくのです。

鮨・鮓の拡散

さて、熟れ鮨として伝わった寿司ですが、中国は宋の時代に最盛期を迎えたと言われています。乳酸菌の力を利用した健康食品である鮨・鮓を愛し、魚から動物の肉から野菜と漬け込んで行き、終いには昆虫までも鮨・鮓にしたと伝えられています。鮨・鮓が日本に伝わってきたのは、おそらく縄文時代の後期に稲作と共に伝わってきたと考えられています。鮨・鮓は日本においては宋に負けないほどに愛され、年貢として納められたという記録が残っているほどです。

寿司の誕生

そして、室町時代以降に入るといよいよ私たちの知っている寿司の原型が姿を現してきます。乳酸発酵を行って作る熟れ鮨は、どうしても発酵熟成に数ヶ月以上掛かってしまいます。その為、発酵がまだ充分進んでない米が原型を留めているうちに熟れ鮨を食べるようになり、酢が工業的に作られだした時代には乳酸発酵による酸っぱさを酢で代用するようになっていきました。これを早鮨といいます。酢を使った早鮨の登場は現在の押し寿司の原点である箱寿司につながり、握り寿司へと発展していくのです。

妖術? 手早く出来る握り寿司

そして、江戸時代に入ると熟れ鮨や押し寿司などの上方の寿司とはまた違った寿司が誕生します。それが現在の握り寿司の原型なのです。川柳に「妖術と いう身で握る 握り寿司」と歌われたように、握り寿司は妖術使いが結ぶ手印のような動きで瞬く間に寿司を握って作ることから気の短い江戸っ子たちに愛されていきました。この握り寿司を発明したのは「與兵衛寿司」を興した華屋與兵衛であると伝えられています。握り寿司の発明はやがて、関西の押し寿司文化と関東の握り寿司文化という形で寿司文化を二分していくことになります。

江戸前寿司の誕生

握り寿司を発明した華屋與兵衛は、寿司文化に多大な貢献をしていくことになります。それが江戸前寿司です。江戸前寿司はその名の通り、東京湾で取れた魚介類を使った寿司のことで、保存技術が進歩していなかった江戸時代において花開いた寿司の料理技法なのです。例えばマグロは足の早い(腐りやすい)魚だったので醤油をベースにした調味液でヅケにして食べると言った、魚の状態を考えた調理法でお客に提供するという江戸っ子の心意気そのものなのです。

寿司の値段は?

江戸前寿司は屋台などで提供されていたので、大衆が食べる料理だったと言われています。その為、現在「江戸前寿司」を掲げる店は不当に高額を提示しているのではないのかと考えられていますが果たして、寿司は本当に「安くて美味しい庶民の味方」だったのでしょうか? 寿司を物語の焦点に置いた志賀直哉の「小僧の神様」では大正八年ごろの寿司の価格は一個六銭、片道の電車賃が四銭となっています。寿司一個ではお腹が膨れないから二個三個と食べていけば二十銭ほどにもなります。そばやうどんは一杯七~八銭ほどだったと言われていますから、少なくとも寿司は昔から安い食べ物ではなかったと言えます。

「鮨」・「鮓」が「寿司」になったのは?

さて、魚を米などで乳酸発酵させた「鮨」「鮓」が酢飯で魚を握る「寿司」になったと言いましたが、一体何時ごろから「鮨」「鮓」ではなく「寿司」の字を当てるようになったのでしょうか? それはおそらく、華屋與兵衛(はなやよへい)が店を開いた頃ではないかと考えられています。なぜなら、縁起を担ぐのが当たり前の江戸っ子です。初鰹をありがたがり、酉の市では熊手を買い求め、伊勢参りが最大のレジャーであったのです。寿司は「寿、目出度いことを司る」食べ物であると宣伝すれば、江戸っ子たちは「それじゃあ、ちょいと寿司で摘もうかい」と財布の紐を緩めるでしょう。つまり「寿司」とは当時の宣伝が現代まで残ったものなのです。

寿司の変化と時代の変化

実は與兵衛寿司では、マグロはそう多く使われては居ませんでした。足の早い魚は下魚の下とされ、屋台などが使う程度でした。しかし、江戸前寿司が誕生したのは1820年代のこと。それはちょうど欧米で冷蔵庫が発明された時期のことなのです。時代を重ねるごとに流入する欧米の文化や技術は、寿司にも大きな影響を与えていきます。気化熱を利用して作った氷でマグロの鮮度を保つことが出来るようになると、マグロは下魚を返上して寿司の王様となって行きます。明治時代にはすき焼きなどの肉食文化の進歩で、味の濃い食べ物が好まれるようになるとトロの部分も食されるようになっていきます。その後、昭和期は終戦後、全国的な食糧難がありましたが寿司屋は『委託加工制』というお客が持ってきた米と引き換えに寿司を握るシステムを立ち上げ、様々なネタを使って寿司を復興させていったのです。寿司は、時代の節目において様々な変化を見せ私たちの舌を楽しませてきたのです。

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